新橋九段です。
最近また萌え絵を活用したPRへの批判があったことからか、私が「お気持ち論法」と呼んでいるものが頻繁に目にするようになりました。
お気持ち論法とその前提
すでにこのフレーズで察しのついている方もいるでしょうが、ピンと来ない方のために説明すると、「お気持ち論法」とは相手の主張を「お気持ち」だと論難し、その一点によって否定しようという形式の議論のことです。
例えば、ある絵を使ったPRに対し、その絵の使用はPRとして不適切ではないかという批判があったとします。この批判に対し、「その主張はあなたの不快感というお気持ちに過ぎない」という反論するのが「お気持ち論法」です。
この論法、ただの詭弁であり言われた側は絶対におかしいと即座に確信するものですが、一方で何がどうおかしいのかを説明するのは骨が折れる作業であり、その非対称性がこの論法を多用するいわゆる「表現の自由戦士」にとって都合のいいものになっています。
実際には、以下で詳しく述べますが、「お気持ち論法」は相手の主張のないように踏み込まないまま全否定するためだけの論法であり、誰かが批判を「お気持ち」とラベリングした途端に議論を拒絶できる犬笛としてしか機能していません。このような論法を多用することは、結局のところ自分たちが議論の不可能な集団であることをアピールすることだけに繋がり、前回『オタクは「チキンレース文化」をやめ議論への門戸を開け』で指摘したように彼ら自身が議論から排除され表現の自由を規制されることに繋がってしまいます。
では、この「お気持ち論法」は論法としては何が問題なのでしょうか。それを説明するには、この論法が「相手の主張には根拠がない」「主観的な感情に過ぎず」「その感情は軽視してよい」という3つの前提を含んでおり、それらの前提それぞれにおかしなところがあることを指摘することから始めなければいけません。
相手の主張には根拠がないのか
まず、第1の前提から見ていきましょう。第1の前提は「相手の主張には根拠がない」です。
しかし、これは検討するまでもないでしょう。客観的に見て、批判者の主張に根拠がないわけはありません。もちろん、批判者によって異なるでしょうが、主要な批判者は根拠を持ってそれぞれの表現を批判しています。ですから、ここで検討すべきなのは「批判者の主張に根拠はあるのか」ではなく、「なぜお気持ち論法の使用者は相手の主張に根拠がないと思い込んでいるのか」という点です。
その理由はおそらく、批判者の「根拠」が表現の自由戦士の考える「根拠」と違う形式であり、そのために彼らがそれを根拠と認識できていないからだろうと思われます。
表現の自由戦士たちが「根拠」というときに思い浮かべるのは、統計あるいは科学的な研究の知見でしょう。そのことは彼らの中にアンケートをわざわざとってみる人間がいたりすることからもうかがえます。これらは当然、何らかの主張をするときにエビデンスとなりうるものです。しかしながら、「根拠」として機能する情報はこれだけではありません。
例えば、環境省がPR用に作成したキャラクター『君野イマ・ミライ』を挙げてみましょう。このキャラクターが批判されたのは、現在(キャラクターが作成された2年前当時も含め)の環境問題の現状を考慮することなく、考えなしに女子高生のキャラクターを使用したためでした。このPRではだらしない女子高生のイマに対しミライが環境保護を説くという形式になっており、若者の低い環境意識を啓発しようとするものでした。が、実際にはグレタ・トゥーンベリが代表するように若い世代こそ環境意識が高く、このような企画を考えた中高年大人世代こそこれまで環境問題を放置した「戦犯」として糾弾されているのでした。『君野イマ・ミライ』は萌え絵でこれらの大人や大企業の問題から目を逸らし、あたかも若者個人の意識の遅れが環境問題に繋がっているかのようなPRを展開した点で強く批判されたのです。
このような議論には、統計も科学的知見も引用されていません。ではこの議論は「根拠のない主観的なもの」なのでしょうか。
そうではありません。これは世界における環境問題の現状という「事実」を根拠として批判を展開する客観性の高いものです。萌え絵批判においてはこのような、いわば「論拠」と表現できるエビデンスが多用されており、「お気持ち」の一言では排せない内容になっています。しかしながら、表現の自由戦士はこの手のエビデンスをエビデンスと認識できていないようです。
こう書くと、ある反論が予想されそうです。というのは例えば「グレタを始めとする事実を列挙したところで、このPRがそういう問題から目を逸らす意図で作成された、あるいはそういう機能があるとは限らない」というものです。つまり、根拠をもとに批判しても、肝心なところでは主観的な推測に過ぎないではないかという反論です。まぁ、ここまでクリティカルな反論をできた表現の自由戦士を見たことはありませんが、彼らの発言の真意を頑張って推測するとそういうことが言いたいのだと思われます。
もちろん、特に創作者の意図や創作物の機能を論じるときには、多かれ少なかれ推測を含まざるを得ません。しかし、それは批評の性質からいって当然であって、推測が混じったら絶対にダメというものではありません。重要なのは、その推測が明確な根拠からスタートし、妥当な筋道を辿っているかです。ここでは「論理性」という別のエビデンスが推測の妥当性を担保してくれます。
そして彼らが忘れていることですが、統計や科学的知見をエビデンスとする議論も、結局のところはある程度の推測を含まざるを得ないということです。彼らは統計を出せば問答無用で自説が正しいことになると思っている節がありますが、そうではありません。その数字や知見をいまの議論に当てはめるのが妥当かどうかは推測するほかありませんので、結局は相手の批評と同じ論理性の土俵に上がらざるを得ません。
それは主観的な感情論なのか
さて、根拠がある以上、「お気持ち論法」第2の前提である「その批判は主観的な感情論に過ぎない」はとっくに崩壊したように思えます。が、感情論という言葉そのものも検討に値しますので、ここでは論じておきましょう。
一般に、感情論=説得力のない根拠なき主観的な議論、であるかのように扱われています。しかし、本来これはおかしな話です。というのも、感情と論理は全く別のファクターなので、別に感情的であることと論理的であることは矛盾しないからです。どれだけ怒り狂っていても「三角形の内角の和は180度である」という証明を正しく行うことは可能です。逆に、どれだけ落ち着き払っていても「1+1=3である」と強弁するのはおかしな人です。
一般に、萌え絵が批判されるとき、特に女性にとってはその表現自体が不快なものであることが多いと思われます。萌え絵をPRに使用するということは、女性の性的な面を強調したうえで客寄せパンダにすることに繋がりやすく、それは女性を道具扱いし主体性を認めないことになります。このような表現に直面して不愉快な感情を抱くことは当然でしょうし、批判の中に不快感の表明が含まれることもまた自然でしょう。
表現の自由戦士はこのような、ふとした感情の発露をやり玉に挙げて批判が「お気持である」と主張します。しかし、先に論じたように、批判対象に不快感を抱いていることと、その批判内容が妥当であるかどうかはまったくもって別問題です。不快感が表明されているからといって、その批判すべてが論理的に妥当ではなくなるわけではありません。批判を否定するのであれば、その批判の論理面に対応しなければいけません。
相手の感情は軽視していいのか
第3の前提です。これは「相手の感情は軽視していいものである」という前提であり、そもそも批判が感情に基づくものではない以上無視してもよさそうなものです。しかし、この前提自体にはかなり多くの問題が含まれていますので、取り上げておくべきでしょう。
まず指摘しなければならないのは、この前提が萌え絵批判への対応として向けられるとき、そこには主たる批判者である女性の感情は重要ではないという昔ながらの女性差別が含まれているということです。
かねてより、フェミニズムの議論では女性の様々なものが社会によって軽視されているということが指摘されてきました。女性の感情もそのなかの1つです。例えば苦痛(ちょっと違うかもしれませんが、不快を生ずるものであるという点は共通するでしょう)を取り上げれば、日本における中絶手術は医学的には掻爬術という時代遅れのリスクある方法が主流である一方で、国際的に普及している中絶薬は認可すらされていないという状態です(『日本が人工妊娠中絶の「後進国」であるという悲しい事実』参照)。
軽視、というからには軽んじられているものの対極には重んじられているものがあります。女性差別であれば、女性の対極で重んじられているのは当然男性です。「ピルは認可されないのにバイアグラはすぐに認可された」という皮肉のこもった笑い話はこのことをよく表していると言えるでしょう。
萌え絵批判であれば、女性の批判を「お気持ち」であると一蹴する一方で、自身が萌え絵を見たいという「お気持ち」は最大限考慮されるべきだという表現の自由戦士たちの主張がまさにこの構造で成り立っています。彼らは批判に対し様々に反論していますが、PRへの使用の是非は表現の自由とはそもそもあまり関係がなく(PRに相応しくないと言っているだけなので規制でも弾圧でもない)、そのPRにわざわざ萌え絵を使用する理由も真っ当に出てこない以上、そこにはもう「萌え絵が見たい」という感情しか残らないことになります。であれば、最低でもお気持ちVSお気持ちとなって相殺されるのが妥当なところですが、そうはならず自分の主張の正当性だけが揺るがないと強弁し続けるのは、意図的にせよそうでないにせよ、女性の感情を軽視し自分の感情を重視する差別的な発想が根源にあるからでしょう。
もう1つ指摘しておきたいのは、感情はそもそも表現を論じるうえで結構重要な要因であるという点です。
例えば、スプラッターもののようなグロテスクな表現は常に一定の規制が課せられています。それはなぜかといえば、暴力性による悪影響云々は当然ながら、まず第一にその表現が多くの人を「極度に」不快にさせるからです。
人間は通常、極端に不快な経験をし続ければ心身の調子が崩れます。小さい例でいえばグロ画像を見たら食欲がなくなるでしょうし、大きな例でいえば酷い被害にあえばPTSDになります。これらはすべて「極度の」不快感を経験したからであり、極端に不快な感情はそれだけで人へ強いダメージを与えることがわかると思います。
そういう理由でグロテスクな表現は規制されがちですが、この点を表現の自由戦士が強く批判することはあまり目にしません。それはグロが不快なのは彼らも同様であるからだと思われます。しかしエロの話になると事情が変わります。それはエロが女性にとって極めて不愉快なものになりえる一方、男性の多くはあまり不快感を覚えないという非対称性があるからです。
そう、ここでも前述した女性差別的な不均衡の構造があります。
エロ、特にレイプもののような暴力的な表現は、それだけで標的とされた女性にとって脅威です。自分と同じ属性の人が暴力を受けてそれが娯楽として消費されている様はかなり不快であると容易に想像できます。いってみれば、「日本から出ていけ」と絶叫するヘイトデモに行きあってしまった在日コリアンや、警察がヘラヘラと同胞を殺す様を見せられたアフリカ系のような脅威を覚えるといっても過言ではないでしょう。もちろん、人によるでしょうが。
このようなとき、表現によってある人が不快感を覚えるということは、その表現が直接何らかの犯罪行為に繋がらなかったとしても、それだけで暴力的なものによる被害であると言えましょう。この被害を、マジョリティである側が一方的に軽いものと断定して論じるような態度は差別的であり、避けなければなりません。
もちろん、このようなことが問題となるのはかなり極端な表現においてであり、萌え絵をPRに使うべきかどうかの議論くらいでは表面化しないかもしれません。しかし、そのような「軽度な」議論であっても女性の感情を軽視するという態度が繰り返し再生産されるのであれば、「重度な」議論においても同じことが行われる可能性が高くなるでしょう。何より、「軽度な」議論ですらそのようなことをする集団が相手から信頼されることはありません。そうなれば、オタク集団は信頼できない語り手として表現の自由の議論から排除されることになります。
繰り返しになってしまいますが、「お気持ち」という言葉はここで論じたような様々な背景を無視したうえで相手を全否定するのに都合のいい言葉です。しかし、そのような言葉を使用する人間は、表現の自由を論じる場に入れてもらえません。そうなればオタク文化の側がいくら泣こうが喚こうが、一切関係なく無慈悲に規制されるということも起こりえるでしょう。
そのような事態を避けるためにも、まず適切な言葉を使い、批判の内容を丁寧に検討したうえで議論に応じる態度が必要です。
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