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オタクは「チキンレース文化」をやめ議論への門戸を開け

 新橋九段です。

 昨今、オタクと目される、あるいは自認する人物の言動がTwitter等で問題視されることが頻発しています。最近の事例は児童への性加害欲求を明け透けにして憚らなかったものですが、それ以外にも勝手に店舗をアダルトゲームの背景に使用されたことに抗議した企業のレビューを荒らすなど、このような問題行動が「日常茶飯事」 と表現すべきところまで来ています。


 オタク文化が受け入れられ、その自由が尊重されるためには、オタクの側にも他者の権利を尊重することが当然求められます。それが近代の民主主義国家の在り方であり、そういう細かい話をさておいても「自分は好き勝手やるがお前らは俺を尊重しろ」などという傍若無人な態度は当然受け入れられません。


 我々はオタク文化を含め表現の自由を守ることを目的とするものですが、それは我々オタクの力だけでは実現しません。周囲が我々の自由を尊重しなければ、不当な規制も即座に成立するでしょう。そのようなとき、オタク文化の側が最低限の正当性ある振る舞いをしていなければ、いくら自由を訴えても周囲は聞く耳を持たず、オタク文化の声の大きさに反して自由はあっという間になくなるでしょう。


 このような事態を避けるために、オタク文化の側は他者の権利を蔑ろにする振る舞いをやめなければなりません。しかし、やめろと言ってやめているならこうも問題になっていないのも事実です。今回はオタク文化が他者を尊重する振る舞いをするために必要なことを提言し、オタク文化の問題の背景にあるものを掘り下げていきます。


チキンレース文化

 オタクはなぜ他者の権利を侵害するのでしょうか。その原因の1つは、オタク文化にあるいわば「チキンレース文化」とでも言うべき露悪主義と、それをネタ化する風潮であると考えられます。


 この記事が書かれる直前に問題となったのは、児童へ性暴力をふるう欲求の開陳でした。このような、一般的に受け入れがたい「性癖」を広く開陳しあうという一種の「遊び」は、オタク文化圏内でままみられる振る舞いです。これは、少々汚い言葉を使えば「どこまで特殊なものでヌけるか」を競うレースと化しているとも表現できます。


 もっとも、ロリやショタと呼ばれる児童への性欲はオタク文化において(というか日本全体においてか)今や一般化しつつあるので、それ単体ではピンときにくいかもしれませんが。しかし、直前に問題となったアカウントの表現を検討すれば、児童への性暴力欲求を「いかにどぎつく表現するか」に趣向を凝らしているとも理解できます。


 私はオタクの誕生から現在までを詳らかにしているわけではありませんが、少なくともニコニコ動画以降のオタク文化においては「過激なことをして注目を集める」という、現在のYouTuberに連なる問題がすでにありました。記憶の限りでは多数の食品を混ぜて「ポーション」を作るものや、多目的トイレの便器で味噌汁を作るものなどがあり、特に後者は問題となりました。


 公平性を期すならば、このような問題はオタク文化だけではなく、古今東西あらゆる「集団」と呼ばれるものの問題でした。過激なことをやって問題となるのはオタクだけではなく、例えばテレビのバラエティなど上意下達的、体育会系的な集団でも頻発しています。それでも、このようなチキンレースがオタク文化にある問題だということに違いはありません。


 私は先ほど、抗議した企業のレビューを荒らす問題を取り上げましたが、問題の大小を問わないのであれば、課金額や消費金額を誇ること、女性声優にセクハラめいたリプライを送り付けること、嫌いになったアイドルのCDを大量に叩き割ること、実在の弁護士やゲイポルノの出演者を「ネタ」とすることなどは全て公開の場で行われていることから、いかに過激なことができるかというチキンレースとしての側面があるといえるでしょう。


 このようなチキンレースはその過激さゆえに、当然様々な問題を引き起こします。レースの標的にされた人物の権利はあっさりと蔑ろにされますし、行きつく先は刑事犯罪です。そのようなレースに集団全体が加担することで、オタク総体が反社会的動機を持つ危険な集団であるかのように目されます。そうなれば、危険視はオタクが愛好する文化や表現にもスライドし、規制せよという声は大きくなるでしょう。


 このとき、いくら表現の自由や、あるいは表現の影響力の少なさをもって反論しても、その反論は説得力を持ちません。なぜなら、少なくとも「オタクになればヤバいことをする」のが事実となっているからです。


チキンレースの背景

 ではなぜ、オタクたちはチキンレースのような過激な行為に走るのでしょうか。ここからは推測ですが、私の考えでは、彼らが「オタク≒変人」という一般的なイメージを内面化しすぎ、それをアイデンティティとしてしまっているからではないかと思います。


 精神医学や心理学においては、疾患が「負のアイデンティティ」とでも言うべきものをクライアントに与え、そのために回復への動機が弱まる問題が指摘されています。自分に何ら特別なところを感じられなかったクライアントが診断を与えられることで、皮肉にも「○○を抱える私」という特別な存在となり、それがアイデンティティとなってしまうためにわざわざ回復して「どこにでもいる健常者の私」に戻りたくなくなるという問題です。


 これと似たようなことがオタク文化でも起こっているのではないでしょうか。自身になんら特別なものを感じられない人が「オタク」となることでそこに内在する「変人イメージ」を引き受け、それをもって自身を特別な存在だとみなすようになってしまう、というわけです。


 そして「オタクである特別な私」となったその人は、そのオタクイメージをより強固にし、より特別な自分になるために過激なチキンレースへ参入していきます。なぜなら、その人の中ではオタク≒変人であり、変なことをすればするほど特別なオタクになるからです。


 現代はネットを介し世界中の「特別な人」を目の当たりにすることができ、それ故に自分の特別さを認識しにくい時代といえるかもしれません。そのような社会でアイデンティティを確立するのは困難な作業です。しかし、平凡さを恐れるあまり反社会的な行動によってアイデンティティを確立するようになっては本末転倒です。


 オタク文化にコミットすることでそうした「まずいかたちのアイデンティティ」を確立してしまうのであれば、我々はもはや、オタクを脱しただの「ゲーム好き」「アニメ好き」になる勇気を持つ必要があるのかもしれません。


なぜオタクはすぐに「燃やす」というのか

 誰かがまずい言動を行えば、当然批判されます。通常、批判を受ければ自身の言動を省みて何らかの反応をするものですが、オタク文化ではこれが機能していません。


 なぜなら、あらゆる批判は「燃やす」という表現でバッシングとして捉えられ、彼らが内容を読むことすらないからです。もちろん、批判の中には「不当なバッシング」と評価すべきものもあるでしょう。しかし、当然すべてがそうであるわけではありません。にもかかわらず、オタクはこれらの批判を「燃やす」と表現することで自動的に「不当なバッシング」へ振り分け、内容に目を瞑ったまま反発します。


 このような表現は一種の犬笛です。「燃やす」と言ったとき、そう言った人間はオタク文化内へ向かって「奴らは敵だ」という笛を吹いているのです。その笛に煽られたほかのオタクが「敵」と目された人物へ攻撃し、批判には一切耳を傾けません。


 このような機能は近年話題の「犬笛」であるとか、あるいはオタクたちの言葉遣いの粗雑さからも理解できます。しかしここでは、先ほどまでの議論とつなげて「チキンレース」として解釈できることを示します。


 現在のネットとオタク文化圏では、表現の批判者への対応それ自体が「チキンレース」と化しているのです。つまり、本来議論となるべきテーマが批判者をどれだけ醜悪な言葉、強い言葉で表現できるか、そして批判者をどれだけ苛烈に攻撃できるかというレースとなることで、一切の改善を許さずただ悪化していくだけの場と化しているわけです。


 例えば、いわゆる「宇崎ちゃん問題」において、ポスターの批判者は「表現規制派」のレッテルが貼られ、「表現を弾圧している」と非難されました。しかしもちろん、批判者の大多数は権力を持たない一市民であり、法的規制を求めているわけでもないので「表現規制派」ではあり得ず、また批判の内容も賛否はどうあれ「弾圧」と呼べるものではありませんでした。


 しかし、批判者を正確に批判者と表現しても、レースでの勝利に貢献しません。そこで批判の内容のいかんにかかわらず過激なレッテルを貼り攻撃することになります。もちろん、批判の内容は一切検討されません。


 昨今では「ツイフェミ」という言葉も流行っていますが、これも「レースのための用語」であると言えましょう。どれだけ穏当な批判をしているアカウントでも、最も過激で醜悪(だと自分が思っている)アカウントと同じ属性を割り振ってしまえば、同じように攻撃することが可能です。


 かくして、オタク文化は「酷いことも言えちゃう特別なオタクである私」を保つため、批判の内容には耳を貸さず、ただ相手へ罵倒を投げつけるだけの遊びに耽溺することとなりました。


チキンレースが招く規制

 もちろん、このような態度では外部からの印象は一切よくなりません。どころか、本当の意味での規制も招くことになりかねないと言えましょう。


 なぜなら、そもそも公共の場での表現をどこまで許容しどこまで否定するかという合意は、市民間の議論によってなされるものだからです。これはどのような表現をどこまで規制するかという話も含みます。言い換えれば、議論に参加することができなければ、この合意に影響を与えることができないということです。


 チキンレースに耽溺するオタクは批判の内容を省みないため、当然議論には参加できません。となれば、合意はオタクを除く市民で行われます。つまり、オタク文化の表現をどう取り扱うか決める議論に、とうのオタクが参加できないという事態が起こります。


 そして、表現を批判したことでオタクの執拗な攻撃(批判ではなく)に晒された市民は、オタク文化全体に悪感情を抱きます。不当な攻撃をされたのに、その攻撃をしてきた人の文化を守ろうという奇特な人は滅多にいないでしょう。そういう市民の集団に、表現を規制したいと考える保守系の政治家が入り込んだらどうなるか。言うまでもありません。


 現在のオタク文化は、表現規制に極めて脆弱な状態にあると言わざるを得ません。文化内での議論が成立せず、外部からの批判に耳を傾けることもなく、どころか攻撃を繰り返し悪印象をばら撒いているからです。そのうえで自民党支持者が多いときています。これでは手洗いうがいもマスクもせず、全裸で「クラスターフェス」に参加するようなものでしょう。


 このような状況を改善し、表現規制の魔手に対抗する力をつけるためにも、オタク文化はまず「チキンレース」をやめ、議論への門戸を開かなければなりません。そして、オタク文化内で表現の自由を守るための論理を積み上げ、規制を目論む論理を拒絶するだけの防壁を築かなければなりません。

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