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日本学術会議の「改革」は違法な介入が正されるまで行われるべきではない

 新橋九段です。

 菅義偉首相が日本学術会議の新会員として推薦されていた学者のうち6名を違法に任命しなかった問題は、収束の目途が立っていません。首相はいまだに曖昧な「説明」を続けており、先日は任命の責任者であるにもかかわらず「リストを見なかった」と主張しました。なお、この説明がなされた時点ですでに、野党側のヒアリングによって菅義偉首相が押印した「候補者105名の」リストが公開されています。


 違法であることが明白な介入について、政府が5秒でバレる嘘をついて憚らないというのは異常な事態と言えます。そのうえ、政府は「日本学術会議の改革」を掲げ、問題の責任を会議側へ転嫁する構えを見せています。


問題の主眼は政府の違法行為にある

 いうまでもないことですが、今回の問題の中心は政府による違法な介入です。日本学術会議にどのような問題があろうと(あればの話ですが)、政府の介入が適法になるわけではありません。


 そのため、今回の件について、政府の違法行為にかかわりない論点をあげる行為は全て「論点ずらし」であり、直接的あるいは間接的に政府の不法行為を利することとなります。


 自身の不法行為が問題とされているにもかかわらず、これを正すことをせず、不法に介入した団体を「改革する」などという言動は常識的に考えてもあり得ません。これは商店で商品を万引きしながら「店員の対応が悪い」などと言い出す居直り強盗に等しい行為であるといえます。


民主主義的手続きの破壊

 先日報道があったように、河野太郎行革担当相は日本学術会議を聖域とせず改革の対象とすると発言しました。

 上述したように、このような蛮行は居直り強盗に等しく、許されるべきではありません。同時に、このような蛮行は日本学術会議に対する任命の問題だけではなく、民主主義的な手続きを破壊する行為であることも強調しておきます。


 繰り返すように、政府による日本学術会議への介入は違法です。そのため、その違法な介入に端を発した「日本学術会議の問題についての議論」も、もれなく不当なものです。違法な介入をきっかけに巻き起こった「議論」を土台に「改革」を行うことが正当化されれば、今後政府が違法な介入を行い、世論を引き付けたうえで「問題」をあげつらうというショック・ドクトリン的な不当な手法を批判できなくなります。ある組織を改革するというのであれば、その手続きは法的に妥当なものでなければなりません。


 そもそも、近代の民主主義社会は手続きの妥当性を重視します。それは、それぞれの手続きが時の権力による恣意的な介入の影響を排しそれぞれの目的を達成できるように設定されているからであり、かつ、その手続きに従うこと自体が手続きの結果の妥当性を一定程度担保するからです。


 例えば、日本学術会議の会員の任期は6年であり、3年ごとに入れ替えられることになっています。この任命は日本学術会議が候補者の学業業績に基づいて推薦し、その推薦に基づいて首相が「形式的」に任命することとなっています。このような手続きは、首相が「今回のように」都合の悪い学者を排除したり、逆に学者以外の何者かが会員に入り込まないようにすることで政府からの独立を確保するために定められたものです。この手続きに正しく則る限り、手続きによって日本学術会議の独立が担保されることとなります。逆に、「今回のように」首相が恣意的に会員を任命しないなどということをすれば、独立性が毀損されることとなります。


 手続きは権力の横暴を防ぐためにあります。民主主義社会における、手続きによって守られる「妥当性」は、政府の行為が民意を反映し主権者の権利を侵害しないことにほかなりません。故に、権力の横暴を否定し主権者の権利を重視する民主主義社会は手続きを重要視するのです。


 安倍前政権からの特徴ですが、近年の自民党政権はこのような手続きを悉く軽視してきました。日本学術会議への違法な介入はその結果であり、かつ、これからの手続き破壊を予言するものでもあります。


 このような手続き破壊が進めば、政府は法律を無視して好きなことを勝手にできるようになります。そもそも手続きは法律によって規定されており、我々が何をどこまでしてよいか、何をしたら違法となって逮捕されるかもまた法律に規定された手続きです。その手続きを無視する政府が、我々への取り締まりという場面で手続きを尊重するという保証はどこにもありません。故に、今回の手続きの破壊は学問の自由はもとより、あらゆる自由を制限する政府の横暴に繋がりかねず、放置することはできないのです。


デマしか根拠のない「改革」論

 加えて、日本学術会議を「改革」しなければならないとする人々の主張のほとんど全て事実に反するデマであることも指摘しておきます。どのような組織に対するものであっても、その改革は事実を前提として行われるべきものであることは言うまでもありません。しかし、日本学術会議に関する「議論」においては、中国の軍事研究に協力しているとか、会員になれば年金がもらえるといった事実に反するデマばかりであり、事実に基づく主張を探すほうが難しいという異常事態です。


 当然のことですが、事実に基づかないまま行われる「改革」が社会にとってプラスになるはずがありません。改革をするというのであれば、適切な手続きに則るのと同時に、事実に基づいて議論を行うことが前提条件であり、最低条件です。


 この最低条件が満たされていないのは、政府が目くらましのために「議論」を喚起しているからにほかなりません。妥当な認識であれば、日本学術会議に「改革」すべき点などありません。そもそも予算が足りてないありさまであり、そんな会議を作ってきたのは自分たち自民党政権なのですから当然です。そのため、「改革」を主張するためには事実から離れたフィクションを持ち上げるほかないのです。


 事実に基づかないというのは、適切な手続きに基づかないのと同じくらい民主主義社会の自由を破壊します。なぜなら、我々が自由を規制されるとき、それは「ああした、こうした、これによってこれが起きた」という事実に基づくからであり、その事実が共有されることによってその規制が妥当か不当か、規制に引っかかるかどうかを判断するからです。


 もし政府が事実に基づかないのであれば、それは「ああした、こうした、これによってこれが起きた」という我々の共通理解が無効化されることを意味します。端的に言えば、根拠のない規制が行われたり、実際には行っていない行為で処罰されうるということです。このような行為は不当なものですが、政府が事実に基づかないことを問題と思っていないのであれば躊躇いなく行われるでしょう。


 手続きを無視すること、事実に基づかないことはこのように、民主主義社会における自由を悉く破壊します。日本学術会議への不当な介入を放置すれば、政府はこのようなやり方が批判されないことを学習し、ほかのところでも行うようになるでしょう。

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