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執筆者の写真広く表現の自由を守るオタク連合

なぜ日本学術会議への介入が学問の自由を侵害するのか:研究そのものの視点から

 新橋九段です。

 すでに広く報道されているところですが、管政権は日本学術会議が推薦した6名の学者の会員任命を拒否しました。いずれも安倍前政権の政策に批判を行ったことがある学者であり、政治的な意図による任命拒否であると考えるのが妥当でしょう。


 この件に関して、加藤官房長官は任命を拒否した理由を説明しなかった一方、任命拒否そのものは、日本学術会議は『内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能』と説明しています。しかし、これは過去の政府答弁と矛盾し、日本学術会議法にも内閣の監督権を明記していないことから違法の可能性が高い行為です。(詳しくは『菅総理による日本学術会議の委員の任命拒絶は違法の可能性-ヤフーニュース』参照)


 さて、本件に関する一般的な批判は、すでにわかりやすさや情報量の面で優れたものが多数存在しますので、ここではもう少し踏み込んで、なぜ今回の政府による介入が学問の自由を侵害するものであるのかを解説しておこうと思います。


 というのも、橋下徹氏がTwitter上で『学術会議のメンバーに入らなくても学問はできるのだから学問の自由の侵害になるわけがない』と発言したように、あるいは加藤官房長官が今回の介入を『直ちに学問の自由の侵害にはつながらない』と主張したように、今回の介入を学問の自由から切り離して論じようとする人々が一定数存在するからです。


 また、新橋九段個人が大学教員の職にあることから、私がこの話題を整理するのにある程度向いている立場であり、かつ職業倫理上の要請からそうすべき立場でもあるからです。


 なお、ここでの学問の自由に関する説明は、表現の自由との兼ね合いから「研究すること」そのものに焦点を当てようと思います。広範に論じようとするとキリがないですし。


日本学術会議の役割

 そもそも、日本学術会議の役割とは何でしょう。会議のHPには、会議の職務として『科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること』と『科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること』が挙げられています。


 ここでいう『その実現』は、日本における社会的、政治的、あるいは制度的な側面での実現を指しています。事実、日本学術会議は会議の役割を4つ挙げていますが、そのうち2つは『政府に対する政策提言』と『科学の役割についての世論啓発』です。


 また、学術研究には多額の費用がかかり、これへの支援は国家の役割であることから、『その能率を向上させること』にも政治的側面が強くかかわってくることは論を待ちません。


 つまり、日本学術会議はそもそもの役割からして政治的な発言や提言を前提としており、またそうすべきであると考えている、あるいはみなされている組織です。


学問と政治の密接性

 このような役割はあくまで「学者の政治活動」であり、学問の自由とは無関係であるという主張があるかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。


 学者はそれぞれ、自身の学術研究や自身の所属する分野が積み上げてきた学術的知見をもとにした何らかの主張を持っています。例えば、私は犯罪心理学者ですから犯罪心理学の知見をもとに、犯罪を犯した少年には処罰よりも支援を中心に対処すべき、といった考えを持っています。


 このような考え方を持ち、そして論文や講義などでそう主張している場合、その考え方に反する政策を政府が行っているのであれば、これを批判するのは論理的に当然の帰結です。むしろ、批判しないほうがおかしいとすらいえるでしょう。このような場合、政府への批判は極めて政治的な行為であると同時に学問的な行為でもあります。


 また、このような政府への批判の中で、どうして自分は政府の政策に反対するのかを明らかにする言説それ自体が学術的な営為です。自身の主張がどうして正当なのかを、様々なデータや先行研究から論じる行為はそれ自体が学問の1つの過程です。


 これと関連することですが、特に社会科学系の研究はもともと、社会への問題意識から出発しています。例えばなぜ人は差別するのかを明らかにする研究は、多かれ少なかれ「差別はなくすべき」という発想を前提としており、差別をなくすための方策を考えるためにまず差別の原因を探ろうというロジックが根っこにあります。


 このような事情は社会科学や人文科学に限った話ではありません。自然科学、いわゆる「理系」の学問であっても、例えば疫学の観点からコロナ対策としてPCR検査を積極的にすべき、あるいはすべきではないという主張は犯罪心理学の例と同様に極めて学術的かつ政治的な言説です。


 ここまでの説明で明らかなように、そもそも学術的な活動と政治的な活動は極めて密接な関係があります。もう少し大雑把なことをいうのであれば、あらゆる物事が議会という政治的な場で決定される現代社会において、政治的でないものなどは存在しえません。


学者の「政治的」が規制されるとどうなるか

 では、学者の「政治的」な要素が政府によって規制されると何が起こるでしょうか。

 まず第1に、政府の方針に反することとなる研究そのものが規制されることになります。


 何もこれは、政府が直接的に研究そのものを規制するということではありません。むしろ、政府は研究を直接規制せずとも、学者の政治的発言を規制するだけで研究を全体的に抑え込むことができます。


 例えば、政府が犯罪心理学者に「少年の犯罪者を処罰すべきという方針に反することを言うな」と規制したとします。そのような状況でも、ある犯罪心理学者はめげずに「少年を支援すると処罰するよりも再犯率が下がる」という仮説を検討する研究を行おうとしているとします。


 一般的に、研究には多額の費用が掛かることから、研究者は資金を得るために様々な研究費助成の制度に応募します。その際、なぜこの研究に助成をすべきなのかを、社会貢献の面からアピールすることが求められます。


 しかし、「少年の犯罪者を処罰すべきという方針に反することを言うな」と言われている犯罪心理学者は、自分の計画する「少年を支援すると処罰するよりも再犯率が下がる」という仮説を持つ研究のインパクトを説明することができません。説明するための言葉を奪われているからです。


 こうなると、この犯罪心理学者氏の研究に助成金が下りる可能性は極めて低くなります。ほかの研究にある社会的意義がないから当然です。そして、彼は研究計画を縮小するか、諦めて別の研究をするかを強いられます。結果、彼の学問の自由は奪われ、政府は自身に都合の悪い研究を潰すことができる、というわけです。


 もう1つの制約は、学者が自身の考えを自由に発言できなくなることの悪影響です。

 先ほど、学者が政府の方針に反する考え方を持っている場合、『その考え方に反する政策を政府が行っているのであれば、これを批判するのは論理的に当然の帰結』だと説明しました。では逆に、そのような考え方を持っているにもかかわらず政府を批判しないとどうなるでしょうか。


 政府が自身の主張に反する政策を行っているにもかかわらず批判しないのであれば、それは学者自身の主張の信頼性を大きく毀損することになります。政府を批判しないのであれば、その考え方はそんなに重要ではないのでは?と思うのは当然でしょう。そうして政府に反する主張が説得力を失うのであれば、政府を批判する学者の力が弱まり、政府の横暴を止められるものが少なくなります。


 また、世間に流通する媒体や講義での政治的(とみなされる)発言が規制されることは、学者自身の考えを広める機会を減らし、その学問の存在自体が世間に知られる機会を減らすことに繋がります。学者が対外的な媒体で発言を求められるのはたいていの場合、その学問領域が社会に密接に関連する場合、つまり政治的な側面を持つ場合だからです。


 学者の対外的な発言は、特に講義での発言が顕著ですが、その学問分野へ新たな参入者を招く効果もあります。学問分野の存在を知らなければ学生は卒論のテーマや院進学後の研究分野としてそれを選べません。裏を返せば、学者が対外的な発言を規制され、学問分野の存在を広めることが出来なくなれば、その分野自体が先細りして消滅する可能性もあるということです。


 これは先ほどの、研究それ自体潰す効果でも同じことが言えます。研究計画に助成金が下りず研究ができないならば、特に若手の研究者は自身のキャリアのためにその分野を諦めざるを得ません。そうやって分野を専門とする研究者が減れば減るほど、新たに学術に参入してきた学生が分野を知る機会が減り、研究が先細りすることにつながります。


 こういうわけで、学者の「政治的」な要素を規制することは、最終的には学問それ自体を自由を規制することにつながるわけです。


より直接的な影響

 最後に、より直接的な懸念を書いておきましょう。


 日本学術会議の任命が拒否された6名は、いずれも大御所というに相応しい業績のある人々であり、政府に任命を拒否された程度ではその地位に大した影響はないでしょう。また、学術会議に入れなければ研究ができないわけではないということそれ自体は事実です。


 しかし、同様の基準による拒絶が大学のポストで、そして若手の研究者に対して行われた場合どうなるでしょうか。


 大学のポストは、研究者が禄を食む主要な手段です。これを手に入れることは、特に若手の研究者にとって重要なことです。このポストにどのような研究者をつけるかを決定するときに、その研究者の政治的立場が考慮されるとすれば、若手の研究者は総じて沈黙するほかありません。


 それだけではなく、政府の方針に反することになる研究それ自体をやめる必要が出てくるかもしれません。これまで説明したように、学術は政治に密接しているからです。そうでなくとも、政治的かどうかの判断は最終的には政府の一存で決まるので、危険な橋は渡れません。「この研究の示唆は政府の政策を否定するものだが、私個人はそんなこと思っていません」は通じないでしょう。


 こうなると、政府に都合の悪い研究は一切行われなくなり、学問の自由は早急に失われます。


 この可能性は、何も悲観的過ぎる推測ではありません。なぜなら、政府は国立大学の学長の就任に閣議での承認を与えたり、多額の助成金を左右することで強い影響を与える立場にあるからです。助成金をちらつかせれば、若手の研究者のポストをどうにかするくらい簡単にできるでしょう。


 日本学術会議という重大な組織で行われたことが、無名の若手のポストという「些細な」ことで行われないという保証はどこにもありません。むしろ、後者のほうが本来可能性がより高いというべきでしょう。我々が知らないだけで、すでに行われているのかもしれません。


 このような視点からも、菅政権の日本学術会議への介入は断じて許すべきではない行為です。

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