新橋九段です。
昨日、安倍晋三首相が辞任の意向を示しました。まだ後継者など不透明なところはありますが、まずは最悪から一歩ましになる可能性を得たことを素直に祝おうと思います。
安倍首相の退陣は持病の悪化とされています。それも多かれ少なかれ影響したでしょうが、退陣の理由はあくまでコロナウイルス対応に高まる批判と、東京五輪といった目玉イベントの度重なる頓挫であることは論を待ちません。
特に、安倍首相が悲願として繰り返し、憲法を擁護すべき行政の長でありながら厚顔無恥にも唱え続けた憲法改正については、衆参ともに3分の2の議席を改憲勢力が占めた時期もあったにもかかわらず発議すらままならないありさまでした。改憲阻止は長年に渡る現場での市民活動、言論活動に労を割いた人々の功績であり、自由と権利を守り抜いた彼らの活動に、市民運動の小さな後輩として敬意と感謝を示したいと思います。
我々は安倍以降をどうすべきなのか
さて、安倍首相の辞任は自由を重んじる市民の小さな勝利ですが、しかし小さな勝利に過ぎないことも事実です。すでに多数の指摘があるように、安倍首相が退いたとしても、体制そのものが大きく変わらない限りは「安倍的な」政治はいつまでも続くでしょう。我々は小さな勝利を大きな勝利へ繋げるべく動く必要があります。
では、「安倍以降」とでも言うべきこれからの活動はどうあるべきなのでしょうか。
私は、そもそも安倍政権がなぜダメな政権であったのかを改めて言語化し整理すべきであると考えています。
安倍晋三は良くも悪くも、長期にわたる政権のイコンでした。支持者は安倍晋三の平凡で有耶無耶な姿を自らに重ね、いわば「矮小な自画像」として愛しました。あるいは、薄く軽いキャラクターに乗じ自らの主張の代弁者として体よく利用しました。
批判者も、安倍晋三の薄く軽く矮小な点をまさに批判すべき点として批判しました。このような態度は「アベ政治を許さない」というスローガンに表れているでしょう。しかし、もう安倍晋三はいません。我々は「アベ政治を許さない」以外の、安倍晋三というキャラクターから一歩離れた理論的支柱を打ち立てなければなりません。
安倍政権は何がダメだったのか
では、安倍政権の何がダメだったのでしょうか。正直、ダメなところは多すぎてここですべてを表そうとすれば終わるころには次の首相も退陣しているでしょう。そんな多くの要素を各々が整理し、言語化することで次の政権の批判軸とすることが求められています。
ここは「広く表現の自由を守るオタク連合」なので、私は自由という観点からまとめておきましょう。
安倍政権がダメだった理由は、表現の自由をはじめとする市民の自由を悉く軽視したところにあります。
その最たる例は、やはり緊急事態条項を定めと「公益または公の秩序」によって権利を制限できるとした改憲草案にあります。この草案は未だに生きており、自民党の改憲議論の中心になっています。
近年の例でいえば、あいちトリエンナーレにおいて『平和の像』などの展示物への弾圧を加えた事例、選挙演説中にヤジった市民を強権的に排除した事例、総裁選を巡り報道各社へ圧力をかけた事例などが思い浮かびます。第二次政権以前に遡れば、NHKに介入し従軍慰安婦に関する報道の内容を改変させた事例、養護学校の性教育を弾圧した東京都議に乗じるかたちで全国の性教育を"見直した"事例などが挙げられます。
このような事例は、もちろん安倍晋三個人によるものではありません。あらゆる事例において、安倍晋三以外の自民党議員の働きがあり、弾圧に繋がったものです。そもそも、あの改憲草案を掲げている時点でそのことは自明です。
つまり、安倍政権のダメだった点としての「自由の軽視」は、当然のことながら自民党全体のダメだった点として認識されるべきです。それは安倍晋三の次に首相となる人物が率いる政権でも引き継がれることになるでしょう。
市民の自由は民主主義社会の根幹です。自由がなければ議論や批判は生まれず、まっとうな政治もあり得ません。自由は必然的に権力者に不都合な行為を行う自由も内包し、それを含めて認められなければなりません。権力者の都合のいい範囲での自由、などというのは自由ではないのです。
そのような自由は、安倍政権はもちろんのこと、あのような憲法改正を目論んできた自民党政権でも守られません。自由を守るには、自由の価値を理解していない政治家政党には退場願わねばなりません。
そのようなロジックで、安倍以降の政権も批判し続ける必要があります。
Comments