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執筆者の写真広く表現の自由を守るオタク連合

芸能人や創作者の「政治的発言」をオタクはどう捉えるべきなのか

 新橋九段です。

 先日ブログにもまとめた「#検察庁法改正に抗議します」のタグは多くの芸能人や創作者にも呟かれるに至りました。


 一方で、その呟きへの反発は苛烈極まりなく、罵詈雑言や脅迫に至る始末です。ある者は発言した人々をリスト化し「反日」や「馬鹿芸能人」と言い出す状態にあります。


 芸能人や創作者は、確かに、これまでに築き上げてきたイメージや作品があり、「政治的発言」はそれらのイメージとそぐわない場合も往々にしてあります。そのようなとき、我々はどのようにそれらの発言を捉えればいいのでしょうか。


 簡単な話:人は政治に口を出す権利を持つ

 「我々はどのようにそれらの発言を捉えればいいのでしょうか」と大仰な書き方をしましたが、この答えは非常にシンプルで、しかも選択の余地のないものです。


 芸能人も表現者も、この社会に生きる個人である以上、政治に口を出す権利があります。発言することそれ自体を否定することは誰にもできません。表現の自由は彼らにも当然あり、発言するという行為を否定することはその自由を奪うことです。


 ですから、ファンだとしても、芸能人や表現者が「政治的発言」をすることそれ自体は甘んじて受け入れるほか選択肢がないのです。


 もちろん、政治的な立場が違えば、その発言を批判することもまた自由です。政治的な立場が違うことを織り込んでファンを続けるのも、ファンをやめてしまうのもそれはファン個人の自由な選択です。当人が自分の責任で発言した以上、それを受けてどうするかはファンの責任で決めなければいけません。


 立場の違うファンはこのまま、「政治的発言」をなかったことにして、これまで通りのファン関係を続けたいと願う気持ちもわからないではありません。ですが、そのために相手の口を塞ぐような行為は許されません。


 何をいまさら騒ぐのか

 皮肉なことに(?)、このような問題は、実のところ左派的な政治思想を持つオタクにとってはさほど珍しい事態ではありません。残念ながらオタク文化を担う表現者の多くが(というか日本国民が全体的に)ネトウヨ的思想と親和性の高い状態にあり、発言の端々にぽろりと飛び出す人権軽視や隣国蔑視に頭を悩ませることはよくあります。


 現に、例えばエヴァンゲリオンで知られる貞本義行はあいちトリエンナーレに展示された『平和の像』を指して「キッタネー少女像」と発言しています。これを聞いてがっくり来たファンも多いでしょう(と信じてます)。


 まぁ、ネトウヨ的思想はあくまで差別であり、中身に関わらず発言することそれ自体が批判されなければいけないという意味では「政治的発言」とは異なるものです。とはいえ、性質としては政治的な要素を含むことも事実です。


 不思議なのは、今回の「#検察庁法改正に抗議します」で芸能人の「政治的発言」を騒ぐ人々の振る舞いが、私にはとても「今更な」騒動に見えて仕方がないということです。


 というのも、このタイミングで「政治的発言という行為そのもの」に騒ぐ人々は、これまでにも「政治的発言という行為そのもの」はあったにもかかわらず、これらの時には全然騒いでいなかったからです。ワイドショーで発言を繰り返す松本人志に「政治的発言をしないでください。イメージが崩れます」と言った人がいたでしょうか?


 よくよく考えれば、「政治的発言という行為そのもの」が非難の対象になるときは、必ずと言っていいほどその中身は「現状への批判」でした。モデルのローラが発言したときは辺野古の基地移設問題でしたし、漫画家の高橋和希が発言したときは政権批判でした。それらは外面上「これまでのイメージの棄損」や「キャラクターを使用した発言の是非」を論じているような振る舞いをしていましたが、そのような発言をした人々の大半は、はたして貞本義行を批判したのでしょうか。


 いや、しなかったでしょう。


 それは本当に「政治的発言への」非難なのか

 実際には彼らは、彼らが政治的発言をしたからではなく、自分と違う政治思想を持っていたから非難したのです。そのような歪みが生じる原因はよくわかりませんし、ここで論じる気もありません。


 ただ、その歪みが明らかに、芸能人や創作者の「表現の自由」を抑圧する方向に働いているのは事実です。内容への批判であれば、そこから建設的な議論も生まれるでしょう。しかし、彼らは「発言すること」を防ごうとしているので、方法は非建設的な中傷、恫喝、脅迫の類にならざるを得ません。


 この問題を解決するには、この歪みを正すほかありません。芸能人にも政治に口を出す権利がある、というのも大事ですが、それと同時に、あなたが気に入らないのは「政治的発言」ではなくて、ファンだった相手が自分と違う思想を持っていることではないのかと問う必要があります。


 表現の自由を重んじるのであれば、彼らの元々のフィールドであるテレビや漫画といった媒体での自由だけではなく、それ以外の場面での自由も擁護しなければいけません。その発言が仮にイメージと沿わないものであろうとです。

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