お久しぶりです。新橋九段です。
昨今はコロナウイルスコロナウイルスで、表現の話があまり目立たない状態にあります。まぁ、問題が少ないゆえに目立たないなら歓迎なのですが、実際はそうではありません。例えば、名古屋市はコロナウイルスのどさくさに紛れてあいちトリエンナーレの負担金支払いを拒否という暴挙に出ました。
そして、このどさくさに紛れて、というよりはむしろ積極的に利用する形で、表現を弾圧しようとする人々もいます。
そうです。安倍政権です。
安倍首相は憲法記念日に際し、憲法改正を求めるフォーラムにビデオメッセージを寄せ、その中で緊急事態条項の必要性を訴えると報じられています。(『【独自】“緊急事態条項”必要性訴えへ 3日の憲法フォーラムで 安倍首相-FNN』参照)
しかし、既に多くの人が指摘しているように、自民党の改憲草案で挙げられている緊急事態条項は恣意的に長期間発令することができ、人権を著しく侵害する危険性のあるものです。
うまくいかないのは憲法ではなく政権が無能なせい
ビデオメッセージで「コロナウイルス感染拡大に触れ」と指摘されているように、安倍政権をはじめとする改憲勢力は、憲法の強権性のなさが昨今の事態を招いたかのような主張をしています。
しかし、これは端的に事実に反します。
コロナウイルス感染拡大は明らかに、政府の無能が招いたものです。パンデミック防止に必要な検査を抑制し、病床を増やすのではなく削るのに多額の費用を使い、医療にかける費用の数倍を「Go To Travel」なるキャンペーンに使い、外出を控えるために必要な補償をいまだ支払わず和牛券で右往左往するような有様では、防げるものも防げません。
このような無能は、野党が2月下旬の時点で2020年度予算案にコロナ対策が盛り込まれていないことを批判したり(結局そのまま採決されましたが)、3月下旬までにいち早く「1人10万円一律給付」を求めたのとは対照的(与党は4月に入ってからようやく)です。
このようにみると、改憲勢力が志向する「人権の制約」以前のところで政府は失策を続け、コロナウイルス感染拡大に「寄与」したというべきでしょう。
改憲しなければ対処できないのか
そもそも、現行憲法は「公共の福祉」による権利の制約を認めています。この「公共の福祉」には当然、疫病の拡大防止も含まれると解釈すべきであり、新型コロナウイルス拡大防止のための様々な措置、なかにはある程度権利を制約するであろう対策も、現行憲法の範囲内で十分可能であると考えられます。
もとをただせば、今回の対策の基礎となっている「新型インフルエンザ等対策特別措置法」には、対策のための物品の売渡しを強制でき、さらに場合によっては罰則を科すこともできる極めて強力な規定があります。
このようにみると、現行憲法の範囲でも、合理的に限られた部分であれば強制力を持った対策を打ち出すことは可能なのです。改憲の必要性は一切ありません。
ではなぜ、彼らは改憲をしたいのか。その理由の1つは、自由な強制力を持ちたいという権力志向にほかなりません。「新型インフルエンザ等対策特別措置法」のような、限定的で合理的な強制力では満足できないのです。
自民党憲法下で死ぬ表現の自由
ここまでコロナの話ばかりになりましたが、かねてから主張しているように、恣意的な強制力を持つ自民党憲法の下では、表現の自由はあっさり死を迎えるでしょう。
これまでは、自民党の改憲草案が「公益と公の秩序」によって権利を制限しようとする危険性を訴えてきましたが、今回は緊急事態宣言の危険性に焦点を絞りましょう。
改憲草案において、緊急事態条項下では「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができ」、そのような政令や政令に基づく行政の指示に「何人も」「従わなければならない」とされています。
つまり、政府が国会審議を経ることなく、恣意的に様々な規制を、法律と同レベルの強制力を持って制定し従わせることができるというのが緊急事態宣言の効果です。ヒトラーに全権を委任したナチスドイツや、大政翼賛会後の大日本帝国と同じ状況が生まれるというわけです。
非常事態下において、改憲勢力である政治家や首長たち、あるいはそれに付き従う行政が極めて恣意的な弾圧を行うことは、皮肉にもこのコロナウイルス禍で明らかになりました。
例えば、日本維新の会(改憲に意欲的)の副代表でもある吉村洋文大阪府知事は、営業自粛要請後に営業を続けているパチンコ店6店舗の名前を公表しましたが、これは実際に営業を続けている店舗全てではなく、その中から一部が恣意的に選ばれたものにすぎませんでした。
表現と直接関連する部分では、厚労省や自民党のTwitterアカウントが特定の報道番組が報じた内容を、その番組名を挙げて誤りだと主張しました。しかし実際には、その指摘こそが誤りであったことが明らかになっています。
また、ライブハウスや劇場に対する、度重なる補償なき営業自粛要請も、弾圧の一環と捉えることが可能です。今回は自粛要請それ自体には一定の合理性はありますが、憲法草案の緊急事態宣言下では、「緊急事態」が恣意的に作られるため、いつでも実態を伴わないままコロナ禍の再現をすることができます。そうして、気に入らない表現を繰り返す文化の基盤を破壊することができるのです。
改憲草案における緊急事態宣言は100日ごとに国会の承認が必要であり、内閣の定めた法令も事後的に承認が必要であるという反論も考えられます。しかし、このような制約は、緊急事態宣言下では衆議院が解散されず任期も延長されるという点によって有名無実化しています。イエスマンで国会の多数を一度でも抑えてしまえば、国会の承認など内閣の追認にすぎなくなります。
仮に国会が正常に機能し、内閣の政令を拒否したとしても、その間に政令が機能してしまえば、表現は不当なダメージを受けます。最終的に最悪が避けられればよし、などということはありません。そもそも、国会の承認を得ない規制によってダメージを負うことそれ自体が不当なのです。
自民党は改憲草案を撤回しない限り信用できない
これ以外にも、改憲草案には多くの問題があり、その問題はすべて「人権の軽視」という根で繋がっています。自民党の草案通りの憲法が出来上がれば、あらゆる人権が無視されます。表現の自由も例外ではありません。
そのような草案を、自民党は未だに撤回していません。安倍首相の言動を見れば、むしろ改憲に向けてさらに突き進もうとしていると評価すべきでしょう。こうした状況にある自民党と、その自民党政権下で改憲を「議論」しようとする政治家を支持することは、表現の自由を死に追いやることと同義です。
山田太郎は「表現の自由を守る」と騙り自民党から出馬しましたが、それが表現の自由を断崖へ追い詰める一歩だったことは言うまでもありません。改憲草案の下では「あらゆる人権」が軽視されるのであり、「オタク的表現の自由はお目こぼしをもらえる」という発想はあまりにも楽観的です。
権力者の気まぐれによって吹けば消し飛ぶような状況にあるものを、「自由」とは普通言いません。
そのような背景があるために、当連合は自民党、ならびに憲法議論において自民党に追従するすべての政党の政治家を、一切の例外なく、また議論の余地なく支持しません。政治家個人がどのようなことを主張していたとしてもです。
そもそも、本当に表現の自由を守りたいならば、自民党に属することは最大の誤りなのですが。
現行憲法に対しては様々な意見があるでしょう。しかし、殊更「表現の自由」においては、現行憲法は優れた規定を有しています。少なくとも、自民党の改憲草案よりはるかに優れたものであることは確かです。
そのことを、憲法記念日であるこの日に確認しておきます。
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