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執筆者の写真広く表現の自由を守るオタク連合

【表現の自由:私の主張】ケモナーの不寛容

 2019年末に原稿を募集した『表現の自由:私の主張』、第4回はこたつこうさんの記事です。


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 こたつこうです。


 今回、「ケモナーの不寛容」というタイトルで投稿させていただきます。本来であれば、そもそも「ケモナー」とは何か、という点から話を始めるべきだとは思うのですが、紙幅と筆者の力量の関係上、かなり思い切って割愛させていただくことをご了承ください。ここでは、「ケモナー」を「ケモノに情欲を抱く人々」であり、かつ、「ケモナーというコミュニティを築き、そこに積極的に参入する人々」であると定義します。

 本稿の主題は、ケモナーが界隈内(以下、ケモノ界隈)において抱えている不寛容性――レイシズムやヘイト――や、ケモナーだけでなく、「オタク」におけるヘイトやレイシズムが流通してしまう理由を考察すること、です。分かりやすく言うならば、「オタク」がなぜ――本来は同質性や共通性、ある意味ホモソーシャルな相互慰撫により成立しているというのに――同じ界隈内の何人か、誰かにも当てはまるであろう属性を、さも「告発する」「あげつらう」かのように、口撃・糾弾・ヘイトするのか、ということに関する考察を試み、先達や現在思い悩んでいる諸氏に対する一助となることを期待とするものです。やたら――オタクが好きな感じで――カッコつけた言葉が並びましたが、ざっくり言えば、ケモナーが抱えている不寛容を考察することが、目的です。

 また本稿は、筆者が以前に頒布した同人誌「ケモノとケモナーにおける個人的な断片」「ケモウヨ」に重複する部分が多くあります。前掲の同人誌よりも、かなり「ざっくりと」記載している部分、あるいは発展している部分があることをご了承いただければ幸いです。


 現在、ケモナーの問題として、ネトウヨ化と冷笑仕草があると私は思っています。ネトウヨ化、というのは、改めて説明するまでもないかもしれませんが、在日外国人の方、とくに韓国籍や朝鮮籍を持たれている方、集団に対する差別的・攻撃的な言動、偏見やデマの吹聴や流布を行う態度や姿勢です。とくにTwitterにおいては、扇情的な話題を簡単に拡散することもできるため、非常に多くにデマや差別が顕在化してしまっています。

 冷笑仕草、というのも字面からお分かりいただけるとは思いますが、行動を起こしたり、活動を行ったりする人々に対する言葉の投石行為です。単なる揶揄や皮肉に留まらず、「クソコラ」のような画像を生産して極めて露悪な表現を行ったり、匿名の盾に守られながら相手を「ネタ」として消費することによる下卑た笑いの共有が行われたりしています。

 ほんらい、ケモナーのような――好みに貴賤は無いとはいえ――性癖の極地のように思われている人々・集団においては、自分たちが一般から排他されうる危機感であったり、積極的にアウトサイダーを引き受けざるを得なかった嗜好であったりという理由から、多様性を担保し、表現の自由をも含めた自由そのものを求めていく存在であるものだと考えられます。コスプレに留まらない、気ぐるみを介した自己表現であったり、イベントにおける多様な交流、近年では外国のケモナーとの交流を積極的に行ったりしている姿勢、などがそれをあらわしているものでしょう。

 そういった集団、人々において、ネトウヨ化や冷笑仕草が蔓延しつつある理由は、なぜなのでしょうか。具体的には、以下のような疑問が浮かんできます。

●ネトウヨ化

 ・欧米だけでなく、地理的に近いアジア諸国――中国・韓国・台湾のような――の人々とも交流を行っているにもかかわらず、なぜ排外主義やデマ、差別を受け入れてしまうのか

 ・いわゆるオタク気質の人々が多く、ネット文化やSNSに親和性があり、ネットに潜む危険や匿名の信頼性等を知っているにもかかわらず、なぜデマや偏見を鵜呑みにしてしまうのか

●冷笑仕草

 ・イベント会場の確保や性的表現の修正等において、表現の自由というものの重要性をよく知っているはずなのに、なぜ他者の表現・問題提起には冷酷な冷笑を行うのか

 ・オタクや陰キャという区分、レッテルを引き受けざるを得なかった過去から、誰かをネタにして笑いを取ったり、いわゆるイジメ的な行為で連帯することを嫌うはずなのに、なぜ他者に対して同じような行為をふるう――虐める側に回りたがるのか


 その理由として、空気や同質性を担保したいからだ、というものがあると思います。もちろん、他の理由も多くあるでしょうが、ここではそれに注目したいと思います。

 ケモナーとして、他のケモナーと繋がりたいという感情、その場の空気に「馴染む」、その場の環境を「受け入れる」ために、そこで共有されている文脈としてのネトウヨ的な、冷笑仕草を積極的に表現し、自然にその場の輪に入ろうとしているのだと思われます。他者から排他されないように、その場に自分がいてもいいことを――ともすれば痛々しいほどに――過剰にあらわそうとしてしまうのだと思われます。そこにいる「みんな」と同じ文法を用いて、「みんな」と同じ対象を攻撃することにより、仲間意識を育んでいるのだと思われます。

 加えて、そこには入れ子になった問題の構造があると思われます。入れ子になった問題の構造、というのは、日本人が抱えている問題、オタクが抱えている問題、ケモナーが抱えている問題です。それらが入れ子になっており――日本人という集団の中のオタク、オタクという集団の中のケモナー、というように濃縮されて――あらわれているのではないでしょうか。平均的日本人が抱えている政治に対する無関心と隣国に対して醸造された偏見と差別の眼差し、オタクが抱えている特有のホモソーシャルな雰囲気、ホモソーシャルな環境において生じているホモフォビックが、より弱い――自分達が「ネタ」「おもちゃ」にできる相手へと向かう、ケモナー。ケモナーにおいては、ホモソーシャルにおいて生じるフォビックな感情が同性愛指向へは向かわず――そこでは積極的に歓迎すらされる――排他・差別可能な、自分たちよりも弱い・一方的に攻撃可能な対象への情動への昇華されているものだと考えられます。


 オタクやケモナーにおいては、その内部の社会において、いくつもの「階層」とでも言うべき序列が存在していることでしょう。例えば、絵を描ければ凄い、着ぐるみを持っていれば交流ができる、イベントに参加できれば人脈を作れる、など、などです。ネトウヨ的な振る舞いや冷笑仕草は、その「階層」を一瞬で超えることができます。「階層」を超えられない――実に多くの、大多数の――構成員にとっては、またとない機会になります。

 集団の中にある越境不可能にも思える「壁」の存在があまりにもありありと浮かび上がっていること――情報が常にSNSでアップデートされすぎてしまい、時間・距離・経済的な格差や界隈内での己の立ち位置が隠しようもなく突きつけられてしまう現状が、問題の根底にはあることでしょう。オタクとして、ケモナーとして「楽しむ」はずの環境において、逆に――せきたてられています。現実のすぐ隣の人、同級生や同期以上の格差や障壁を強制的に味わわされています。ローカルな環境での自分の立ち位置が半ば強引にグローバルな環境へと落とし込まれ、立ち戻れるグローカルな場が形成されることもなく、飲み込まれてしまっています。そんな中で、目の前に吊るされた甘い餌のような、容易に手を出し、周囲の環境に馴染むことができる、ネトウヨや冷笑仕草には、誰しも食らいついてしまうのではないでしょうか。だからこそ、これほどまでに「ひどい」状況が、いま眼前に拡がってしまっているのではないでしょうか。


 私達はオタクで、私達は――リア充マッチョイズムの中では明らかに――弱い。乱暴を承知で言ってしまえば、「陽キャ」である人のほうが少なかったでしょう。オタク的な趣向は、そんな自分を肯定でき、同志と出会える、素晴らしい趣味であることは事実でしょう。それが私達の生き方を支え、生活を充実させてくれた楽しみであることは決して否定できないものです。

 だからこそ、私達は、ヘイトや不寛容といった、他者を排他し差別する構造を、断じて許すべきではないでしょう。誰か・何かをスケープゴートにして群れることは、楽ですし、自分が標的にならない限り、安穏としていられるものです。自分がこれまで被ってきた「被害」「辛さ」を全て八つ当たりできる対象がいれば、多少の気が紛らわせるものでもあるでしょう。ですが、それでいいのでしょうか? 私達は、いわゆる「オタク」趣味の――漫画やアニメやゲームから――そういった生き方を教わったのでしょうか? いや、そうではないでしょう。そうではないと、私は信じています。

 ケモナーにおいて存在する、冷笑やネトウヨ仕草は、決してケモナーだけの問題ではないと私は思います。近年、コミケのたびに話題の俎上に上る、500円硬貨と500ウォン硬貨の話題のように、オタク諸氏はしごく自然に、差別を行いつつある、と私は危惧しています。そして、その行っている差別を理由付けして、自分の振る舞いが間違ってはいないと納得したがっている、と私は思います。SNS上ではとくにそうではないでしょうか。デイリー・ミー、エコーチェンバー、フィルターバブルといった現象や、種々の心理的理由において、私達は楽で・みんながやっている方向に流れたがるものだからです。個人の情動的な、心理的な理由とともに、SNSや検索サイトが至極自然に紛れ込ませ提供している、構造的な、社会的なものがあるでしょう。


 だからこそ、その――ともすれば圧倒的で一方的な――おぞましい流れになんとかして抗わなければならないと、私は思っています。一人ひとりが目の前の居心地の良さに身を委ねてしまうのではなく、将来を見据えて――ある意味で究極にセルフィッシュな、トータルな意味での自らにとっての居心地の良さや利を求めるために、行動するべきではないでしょうか。

 さて、ケモナーの不寛容に関する文章としては、あまりにも風呂敷を拡げすぎてしまったきらいが、筆者にはあります。いちオタクの、いちケモナーの、ひょっとしたら杞憂かもしれない危機感として、2019年末にこの文章を認めさせて頂きました。当然のことですが、この文中にあるあらゆる瑕疵は、私こたつこうが全ての責を負うものです。末尾になってしまいましたが、このような機会を提供していただいた主宰、日々――筆者に見識と観点、話題に気づかせていただける、連盟の参加者やオタクにおける表現の自由に関心の高い諸氏に心から感謝いたします。

 そして何よりも、こういったテーマに興味や関心、問題意識を持ち、本稿に触れて頂いた、オタク――場合によっては著者と同じケモナーの――貴方に深く感謝し、文章の接辞とさせていただきます。俗な言い方になりますが、私自身がケモナーである以上、ケモナーたるあなたの問題意識、この記事に辿り着いて頂いたことは、私にとって本当にありがたいものであります。

 最後になってしまいましたが、こういった機会を提供していただいた、主宰の九段新橋氏には、心から感謝を申し上げ、結びとさせていただきます。もし何かありましたら、Twitterの @kotatsukou までご一報いただければ幸いです。以上、拙文をお読み頂き、誠にありがとうございました。

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