新橋九段です。
2020年が始まって2週間経っていないのに、さっそく表現について3つ大きな問題がありました。忘れないように、取り急ぎ覚書としてここに書いておきます。
1.IOCが「政治的な」抗議行動を禁止
詳しくは『2020年東京オリンピックでは「ひざまずく」や「拳を上げる」などの政治的意味合いを持つポーズが禁止に』をご覧ください。
昨年の大河ドラマ『いだてん』でも扱われたように、本来スポーツと政治は別物です。しかし、あらゆることが政治的となりうる昨今、なにが政治的であるかを判断するのは極めて難しいことです。
記事によれば、IOCが禁止する行動には以下の行為が含まれます。
・サインやアームバンドを使って政治的なメッセージを表示すること
・ハンドジェスチャーや膝をつくことなど、政治的な性質のあるジェスチャー
・セレモニーの慣習に従うことへの拒否
気を付けなければいけないのは、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会が、会場への旭日旗持ち込みを禁止せず、IOCもそのことを特に否定していないことです。旭日旗は現状、ヘイトデモで掲げられるなど極めて政治的な扱いをされているものであり、一般的な国旗としての使用例は皆無です。
このような状況では、結局のところ、どのようなパフォーマンスをするにせよしないにせよ、個々人がその人の責任において決定するほかないように思えます。少なくとも、何が政治的で何が政治的でないかを決定することそれ自体が極めて政治的なふるまいであることは指摘しておきます。
2.香川県のゲーム規制問題
香川県議会が「ゲームは1日60分まで」というような規制を打ち出しています。
コンテンツ文化研究会のブログ記事が、その素案を公開しています。私は条文の類に詳しくありませんが、一部を除けば「よくあるやつ」という印象です。しかし、資料の5枚目に突如として、ゲームの1日の使用時間を定めた文章が躍り出てきます。
単純な時間制限が、ゲーム依存症に効果的であるというエビデンスは私の知る限りありません。もちろん、長時間の使用はリスクを上げるでしょうが、そもそもゲームへの依存はそれ以外の娯楽ができる環境にないこと、学校などの環境への不適応なども原因となっており、時間制限で解決できるものでもありません。
また、この規制が問題なのは、希薄なエビデンスに基づき、家庭内の極めてプライベートな時間の使い方に行政が介入しようという姿勢があるからです。各家庭でゲームに関するルールを決めようというのであれば、それぞれが家庭の事情に合わせたルールを決定すれば済む話であり、具体的な時間を上から指図されるいわれはありません。
この規制の背景には、案の定自民党の影があります。中心的な推進者である香川県議会 「ネット・ゲーム依存症対策議員連盟」会長の大山一郎氏は自民党香川県連幹事長代行であり、日本会議所属という「いかにも」なプロフィールの持ち主です。
そもそも、自民党は「家庭教育の再生」を謳いながら、自身の理想とする家庭像を押し付けるという政策をとり続けています。選択的夫婦別姓や同性婚への拒否的態度、また婚外子差別をめぐる一連の振る舞いはその最たる例です。今回の件も、そのような態度から繋がって生まれたものであるといえましょう。
ちなみに、山田太郎議員はこの件を問題視していますが、中心的な推進者が自民党議員であることは頑なに言及せず、香川県の問題であるかのように振舞っています。
3.カウンター参加者を微罪逮捕
すでに当該記事は削除されていますが、公安警察がヘイトデモに対するカウンター参加者の1人を、いわゆる「車庫飛ばし」で逮捕したという事件がありました。
車庫飛ばしとは、平たく言うと自動車の登録された住所と実際の使用地域が異なるというものです。業者が排ガス規制を逃れるために行うことがあるようですが、個人が行う場合ほぼメリットはなく、単に手続きの煩雑さを嫌って、あるいはそもそも違法であることを知らずにそういう状態になってしまうことが大半です。この記事を見ている人の中にも「車庫飛ばし」状態の人がいるかもしれません。
この件の問題は2つあります。まず1つは、警察がカウンターという、ヘイトスピーチの脅威に晒されているマイノリティを守る活動をしている市民を微罪で逮捕したということです。
すでに多くの指摘があるように、警察はヘイトデモを取り締まるどころか、デモを警備しカウンターを排除することでヘイトスピーチを積極的にアシストしてきました。特に公安警察はその思想性も極右に近いことが指摘されています。
もう1つの問題は、この件を報じたTBSが、逮捕者の実名を顔を公開して報じたことです。おそらく、公安から逮捕するという情報のリークがあり、それをそのまま流したのでしょう。裏を取らない垂れ流しであるため、カウンターの参加者をC.R.A.C.の一員であると誤って報じていました。
本来、マスコミは警察のような権力が適切に職務を遂行しているかどうか、批判的に検証し報じる義務があります。にもかかわらず、現状では、警察の発表を右から左に流すだけの存在になっています。いくら表現の自由を謳っても、それが適切に使用されていないのであれば説得力はなくなります。
そのような、報道の責務を忘れた振る舞いを繰り返せば、いざその報道の自由が奪われそうになったときに、味方してくれる市民は一人もいなくなるでしょう。
Comments