新橋九段です。
今回の内閣改造は台風被害ガン無視に始まり、ツッコミどころが多すぎて手が回らないというのが正直なところです。とりあえずここでは、表現にかかわるところから触れていきましょう。
末期には積極的に弾圧する姿勢を見せた柴山昌彦文部大臣、その後任である萩生田氏も気にかかるところですが、今回は新防衛大臣の河野太郎氏です。
防衛大臣が表現に何の関係が?と思うところでしょうが、氏のTwitter運用には問題があります。
ブロックは表現の自由に反する
それは、河野大臣が自身に批判的なアカウントの片っ端からブロックしているという問題です。
言うまでもないことですが、Twitterでブロックされると、された側はした側のつぶやきを一切見ることができません。
つぶやきを一切見ることができないということは、閣僚がネット上という公の場でどのような言説を行っているかを確認できないということです。有権者によって選ばれた公人が、公の場でそれに相応しい振る舞いをしているかを監視するのもまた、市民の参政権のひとつと言えましょう。さらに、発せられた言説を確認し、それに反応することは表現の自由の範疇です。
表現は発せられるだけでは意味がありません。受け取られ、必要であれば反応する必要があります。表現の自由を確保するということは、発する自由を確保するのと同時に、受け取る自由もまた確保するということです。
そのような観点からいえば、河野大臣のTwitter運用は明らかに、表現の自由を守るべき公人の振る舞いから逸脱しているというべきでしょう。
批判を拒絶する小ささ
また、これは表現の自由とは少し離れますが、政治家として批判を受け止める姿勢が一切ないのも問題でしょう。
もちろん、大臣となれば1つのツイートに数百のリプライが押し寄せるのも当たり前で、その全てに目を通すのは困難極まることです。しかし、現実的に把握が難しいことは、批判の門戸を開いておかない理由にはなりません。
政治家、とりわけ閣僚に繰り返し選ばれるような立場の人間であれば、市井の人間の声に傾けるべきでしょう。
ミュートがあるじゃないか
百歩譲って、自身のアカウントに脅しのような不適切なリプライを投げかける、あるいは大量のリプライを投げつけるといったアカウント運営を妨害するアカウントをブロックしなければならないというのであれば事情は分かります。
しかしながら、ブロックされた者の中には、単に批判的なコメントを送っただけの者やそもそも接触していない者も含まれるようで、河野大臣がそのような運用を行っていないことは明白です。
また、初期のTwitterならまだしも、いまのTwitterにはTLにアカウントのつぶやきを表示しないミュート機能があり、大半の迷惑行為はミュートすることで対応可能であるはずです。ミュートを使えば、不適切なリプライを防ぎつつ、向こう側のアクセスを阻害することも回避できます。
そのような措置をとることなく、いきなりブロックしてしまうことは、市民が持つ、自身の言論を受け取り批判的に論じる権利への軽視、無理解があるとしか思えません。
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